正直に言う。
この本を読み始めたとき、「ああ、NASAオタクが書いたサバイバルもの」くらいにしか思っていなかった。カロリー計算とか軌道力学とか、そういう細かい話が延々と続くやつ。面白いけど、まあそれだけでしょ、と。
全然違った。
🎧 ポッドキャスト「物語の裏側」も聴いてみて
このブログと同名のポッドキャスト「物語の裏側」では、小説『火星の人』を章ごとに深掘りするシリーズを配信している。ワトニーが火星から送る交信記録のように、一回ずつ読み解いていく。
第九交信 — 近日公開
第十交信 — 近日公開
耳で聴くと、また違う角度から物語が見えてくる。
ワトニーはなぜ崩れないのか
マーク・ワトニーは、火星にひとり取り残される。食料は限られていて、救助の保証もない。どう考えても詰んでいる状況だ。
なのに彼は、日誌にジョークを書く。
自分の糞で芋を育てて、「これは勝ちだ」と言う。
普通だったら「は?」となるところだ。リアリティがない、と感じるかもしれない。でもなぜか、全然そう感じないんですよ。むしろ読んでいてどんどん引き込まれる。ページをめくる手が止まらない。
これはなぜなのか、ずっと考えていた。
構造の話をさせてほしい
アンディ・ウィアーが選んだのは、日誌形式という語り口だ。つまり私たちは常に、ワトニーの頭の中にいる。
彼の視点は、一貫して「分析的」で「しばしばコミカル」で「ほとんど自己憐憫がない」。
これは偶然じゃない。意図的な設計だ。
日本の言葉で言うなら、「七転び八起き」という感覚に近いかもしれない。でも『火星の人』のワトニーは、転んでいる暇もないくらい、すぐ次の問題を計算し始める。ある問題を解決したと思ったら、より大きな問題が現れる。その繰り返し。
小説の構造そのものが、この哲学を体現している。
そして視点が火星とNASAを交互に切り替わることで、物語は「一人の天才が全部解決した」話にならない。ワトニーを救うのは、地球の何十人もの科学者たち、エンジニアたち、官僚たちだ。集団的な問題解決の物語になっている。
科学描写は「道徳の骨格」だった
ここが、読んだ後でじわじわ気づいたことなんだけど。
カロリー計算も、RTGの熱量計算も、軌道力学も――全部ただのリアリティ演出じゃなかった。
あれは「哲学的な論証の素材」なんだ。
ウィアーが言いたいことはこうだ:宇宙は、知ることができるルールでできている。そのルールを人間が集合的に理解して応用すれば、不可能に思えることができる。
科学描写は小説の「味付け」じゃない。小説の「背骨」だ。
ジョークが「テーゼ」だという話
これが一番伝えたいことかもしれない。
ワトニーのジョークは、コミックリリーフじゃない。
あれは、「自分の状況をどう語るか」という能動的な選択だ。
人間は、自分の苦しみをどう物語るかによって、その苦しみの生き延び方が変わる。自分の絶望に名前をつけて笑い飛ばす人間は、その絶望に飲み込まれにくい。
ウィアーはそれを言いたかったんだと思う。
ジョークは反乱だ。状況に定義されることを拒否する行為だ。
日本でも「笑い」を生存戦略として使う人はいる。落語の語り口とか、職人が辛い仕事を淡々とこなしながら「まあ、しゃーないな」と笑うあの感覚――ワトニーのそれと、どこか通じるものがある気がする。
「英雄」の定義が違う
従来のフィクションの英雄は、危険に飛び込んで、自らを犠牲にする。
ワトニーはそういう意味では勇敢じゃない。
彼の勇敢さは認識論的だ。清明な思考を不可能にしようとする状況の中で、清明に考え続ける。それが彼の英雄性だ。
これ、正直すごくリアルだと思う。実際に極限状態で人を救うのは、劇的な犠牲じゃなくて、冷静な判断力だったりするから。
最後のシーンについて
ネタバレになるけど、書く。
物語はワトニーが劇的に救出されるシーンで終わらない。
彼が新しい宇宙飛行士候補たちの前に立って、「宇宙で生き延びるとはどういうことか」を語るシーンで終わる。
サバイバルは、次の人への教えの準備だった。
この終わり方、すごく好きだ。個人の英雄譚じゃなくて、知識が前に渡されていく物語として閉じる。派手じゃないけど、誠実だと思う。
まとめというか、個人的な感想
『火星の人』は「火星でジャガイモを育てた話」として記憶されやすい。
でも本当に書かれていたのは、こういうことだ。
楽観主義は性格じゃない。訓練だ。
科学的方法論とは、本質的に「諦めない」という構造を持っている。人間は協力して、知っていることを応用すれば、不可能に見えることができる。
ワトニーのジョークは「笑い」じゃなくて、「これは解決可能だ」という選択の繰り返しだ。
それが、この小説が本当に言いたかったことだ。
次はまた別の本の話をする。ではまた。
物語の裏側 — 物語を、解体する。

